カウナス
新市街にある「ホステル ラックス」にチェックインした続きです。
15時から外出しました。
杉原記念館に行きます。
モスクあった。珍し。
げっ、、、こんな急な階段上らせんのかよ千畝さん。
閑静な住宅街です。
こんなところに日本領事館あったのかよ。
でも日本も五反田とか大崎あたりの住宅街にマイナーな国の大使館多いもんな。
杉原記念館
15時30分。
着きました、杉原記念館。
普通の家やん。
まぁ”大使館”じゃなくて、”領事館”だもんね。
キルギス帽.
希望の門.
命のヴィザ.
チケット 3ユーロ≒490円
パンフレットくれた。
展示は地下にあります。
入場者はおいらだけ。
まず20分くらいの杉原さんの紹介ビデオを見ました。
間違ってるかも知れないけど、おいらなりに杉原さんの功績をまとめてみますね。
リトアニアに逃げて来たポーランドのユダヤ人は、シベリア鉄道でソ連を横断し、日本を経由して第三国に向かうしかドイツの迫害から逃れるすべがありませんでした。
それでユダヤ人が日本領事館に押しかけて「杉原はん、日本の通過ビザくれまへんか?」と言ってきたわけ。
日本て当時、ドイツと同盟結んでましたやろ。
あの日独伊三国軍事同盟とかいうやつ。
せやから杉原はんが日本政府に「通過ビザ出したってもええでっしゃろか?」と聞いても、答えはもちろんNo。
そこで杉原さんは個人の信念と人道的な使命感から日本政府の方針を無視して、独断でバンバン通過ビザ出しまくったというわけです。
1940年やから手書きのところ多くて大変やったらしいで。
そんな杉原はんの行いで、正確な数字は分からへんけども6000人以上の命が救われたと言われております。
そりゃあもう外務省は激オコよ。
帰国後、杉原はんは退職を余儀なくされます。
あ でも、その後普通に民間企業に勤めて、86歳まで長生きされてるから全然バッドエンドちゃいますよ。
まぁそんなとこかな。
日本人として誇りに感じました(小並感)
自らの立場やキャリアよりも、困難な状況に置かれた人々の命を優先した姿勢は見習わなくてはね。
当時SNSあったら#杉原△で溢れて流れ変わってたやろなぁとかも思った。
では、展示を見ていきましょう。
応接間?
日本語の解説が一番上に書かれてるから、日本にいると錯覚するわ。
まぁ入場者の90%以上日本人だろうしな。
↑杉原一家の記念写真
↑杉原の嫁、幸子
昭和の女優みたいです。
新紙幣をリトアニアで初めて見るとは思わなんだ。
↑杉原さんの机
ここで朝から晩までビザを作りまくったのでしょうか。
↑感想ノート
↑スタンプ
当時のデザインだそうです。
↑小雪と唐沢さん
『杉原千畝 スギハラチウネ』という映画のロケで来たのかな。
新市街
↑ライスヴェス通り
新市街に戻って来ました。
↑石を抱えた金属人間
石(意思)は重い(思い)
クロっちです!
↑珍しいタイプのフルーツ屋
ほっともっとかと思ったらヘスバーガー
↑ヴィエニーベス広場
リトアニアの独立のために犠牲になった英雄たちの記念碑が立ち並んでいます。
↑永遠の炎
このまま旧市街まで歩きます。
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